名前:理事長 1939年生まれ
 大戦が始まる前、生めよ増やせよ辛抱せよの時代でした。結婚38年
夫婦喧嘩は自分に気づく大切な研修の場と気づくようになりました。子供は3人、元気で暮らしています。タバコは32年前長男誕生のとき止めました。お酒は飲めません
 趣味は旅、ゴルフ。年2回「南無の会」というコンペを主催しています。俳句を少し、「晨」同人。人生俳句を詠みたいと思っています。

更衣して学僧世事に交わらず 棟梁のかっては女房蕗を摘む

 私の夢は「坊さん」になること。生んでもらったこと、生きることの歓びを伝える人になりたい。事業はその道場です。


 
   
 

□過去紹介

 

1939年3月10日、那賀郡都治村大字後地で5人兄弟の長男として誕生した(先日どなたかの履歴書を見ていたら職員さんの中に3月10日生まれの人がおられました)。

 

国民学校1年生のとき終戦で、戦後の貧しい時代のことを少しだけ体験した。

 

塩炊き(食塩作り)、鶏や山羊飼い、乳搾り、山菜取りやあらゆる農作業の手伝いなど遊びのようなものであったが、貴重な体験になっている。

 

布製のグラブが欲しくて、山から瓦を焼く松の割り木を負い出す仕事もしたが苦しくて3日も続かなかった。

 

サザエ、あわび、たこ採りは中学生でマスター。

 

京都の大学に入ると学問より社会勉強が中心になった。駅前観光旅館の住み込み手伝いを始め清水寺門前お土産店でのお土産売りは、いろいろな裏世界が見えて楽しかった。

 

外国人の観光バスに乗って英語のガイドになろうとして試験を受けたが不合格。このとき自分の実力を知らされ、英語教師の資格取得を後1単位残してあきらめた。

 

4年間、空手道に熱中した。関西学生選手権大会などに出場したが、引き分けばかりで1勝も出来なかった。かわらを10枚重ねて拳で割ることも出来たし、学内ではベスト3には入っていたのだがレベルが低かったのだろう。

 

また日曜日はボランティアで子ども会の先生をした。ゲームやお話しの基本をしっかり学んだが、これは役に立っている。

 

昭和36年、卒業時は就職難だった。父親の知人のコネで、希望した大阪商人を体験できる零細商店に無理やり入れてもらった。

 

月給7,500円、ケツネうどんが25円の時代だった。この店は自動車と二輪車の部品と用品の卸と小売をする店で活気がある店だった。

 

店の便所掃除と小売の仕事をもらった。阪急、阪神、高島屋、近鉄、そごう百貨店内にある売り場も体験した。店づくりのコンセプトが決まるまで、時代の変化が読みきれずさまざまに変化した。

 

私といえば、経営者の考えを確かめ具体化することに没頭し、15時間労働を少しも苦と思わなかった。マーケッティングという仕事が好きだったのだろうと思う。

 

豊かな時代の到来の気配を感じ、20馬力の船外機つきのプレジャーボートを売り出しセールスもした。琵琶湖のマリーナや淀川でボートの試乗会をしながらセールスしたが、ついに1艘も売ることが出来なかった。私はセールスに向かないことを知らされた。

 

ボートの販売は1シーズン限りで終わった。無意識のうちに撤退する決断があることを学んだ。

 

多角化より集中化。自動車用品アクセサリーへの集中と、小売業への集中が始まったのは昭和40年代に入ってからだった。主婦の店ダイエー、ヒグチ薬局、ミスタードーナツなど関西から小売業の革命が始まった。先の見えない闇の中に、方向を定めて進もうとする経営者の姿にすっかり魅了され働いた時代だった。

 

楽しみもあった。ホンダがF1に参加し、鈴鹿サーキットが誕生し一気にモータースポーツの時代が来た。楽しみと商売のために自動車レースに出場できるA級ライセンスを取得した。

 

しかしスピードを競う競技には出なかった。自分の車がなかったためでもあるが、怖くもあった。親しい友達が練習中クラッシュして火達磨になって焼死した。

 

もっぱらラリーという山道を疾走する競技に出場し、スピード運転を楽しんだ。

 

昭和48年、自社の事業全体が危機になった。売り上げの伸びが止まり経営資金が不足してきた。早期回収などでしのいだが、変化できなければ行き詰まりが来ることを学んでいた。そして一切の卸売り事業から撤退し小売業に集中することになる。

 

この決断は私の生涯に大きな影響を与えている。決断とは、先のわからないことでも一つを選び、過去を捨てることだったとずっと後で気づいた。

 

オートバックスというお店をつくった。決断をした経営者は偉大だ。その人の漠然とした思いを形にしたプロジェクトの責任者をさせてもらった。その時の私は、経営者を100%信じていた。そして成功を卯の毛の先ほども疑わず、7人のスタッフと全力で取り組んだ。

 

失敗したら会社は間違いなく潰れる決断であったにもかかわらず、疑いはなかった。

 

いくつかの成功要因がある。方向を絞りきったこと、開店日を決めて一切を集中したこと、コミュニケーションを密にして一切を任されたこと、変革に対するほどよい周囲の反対があったこと。11月23日、東大阪で二日続きの徹夜でうつろになった目に開店前からお客さんが押し寄せた姿が見えた。

 

失敗もした。セブンズサンペイントという会社を潰した。私のマーケッティングは欠点が多かった。事業は人が行うものと心底思い知った。

 

昭和52年大晦日、住職になるために二人の子供をつれて田舎のお寺に戻った。それでも会社は辞めさせてくれなかった。日曜日の寝台列車で大阪に行き、金曜日の寝台列車で島根に戻る生活を5年間続けた。家族にはずいぶんさびしい思いをさせていた。

 

5年目にストレス性十二指腸肝炎になり吐血して入院した。翌年再発し手術して、このとき会社を辞めた。輸血を受けウイルス性肝炎にかかり、3つの病院に7ヶ月間入院した。

 

3つめの病院は、大阪の八尾市にある甲田医院という西医学専門の医院だった。心身一如、体が本来持っている治癒力を大切にすることを基本にした療法で全国から患者が来ていた。簡単に入院が出来ず、近くのビジネスホテルから通って療養することから始めた。

 

3回に分けて18日間断食をした。「空腹を楽しめるようになりなさい」といわれたが、3回目には本当にそうなった。病む前に64キロあった体重は、42キロになったが頭は冴え動きも楽だった。3ヶ月の入院中毎朝甲田先生の講義を聞いた。30分〜45分くらいのお話しだったが新鮮だった。便秘の恐ろしさ、少食の大切さなど健康にとどまらず、人生を考えさせていただいた。

 

住職になったとき、「いい坊さんになろう」と思った。当初「いい」という意味は、わかりやすく仏法を伝えることだと感じていたが次第に変わった。夢が変わったわけではなく、夢についての思いと夢を実現しようとする姿勢が変わった。今は「いい坊さん」になれず、夢と現実の間をおろおろする「みじめな坊さん」の姿をお見せすることが大切と思い始めている。

尊敬する友人がいる。

同い歳で、大阪で同じ会社にいたため、率直に「尊敬している」といえない心の貧しさがあったが近頃やっと言えるようになった。千葉ジェフというJ1の第一スポンサーになっているオートウエーブという会社の経営者、廣岡等という人だ。思想が高い。その思想を経営にしていることもすばらしい。

「ソンの哲学」とでも言えばいいか、相手側の気持ちを経営に織り込もうとしている。1,000人近い社員に思想を浸透させることは並大抵なことではないが、それが実現しただけ事業規模は大きくなっている。

年に数回しか会えないが、この人の言葉を反芻して身を律し自分を鼓舞することはしばしばある。

 

過去はすでに何もない。しかし多くの人は過去を引きずっている。経歴や肩書き経験で仕事をしようとして変化出来ないでいる。

仕事は人間がする。その人間は過去が育てた。過去は、謙虚になること、感謝をすることを教えているのではないか。過去紹介をしながらそう思っている。

 

 

 

 

誕生

 

 

 

 

 

 

 

下段右端

空手部時代

ボランティアをしていた頃(右)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出走前の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オートバックスの社長と

 

 

 

 

 

家族と(妻、娘)

 

息子と海

 

 

 

 

尊敬する友人(左)と掛布選手(中央)

 

 

 

 


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